プロフィール

私(メンメン)のプロフィール

1977年神奈川県生まれの♂。

サラリーマンの父と趣味でジャズを唄う母の長男として育つ。3歳下の弟がいる。

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浮力重視のマイボード

現在は妻と娘2人の4人家族。趣味はサーフィン。

公立の中学・高校を卒業

大学受験時当時の彼女に合わせて勉強していたお陰で辛うじて現役で工学系大学(土木工学科)へ合格・入学するも、青二才発揮しすぐに留年確定。5年かけてなんとか卒業。

親にはモラトリアムと言われたが、当時はやりたいことがわからないことにとても悩んでいた。20代はずっと悩んでいたと思う。割と生真面目な性格。

大学卒業後、1年はいわゆるフリーターをして、サーフィンと英語上達目的でオーストラリアに2ヶ月程度滞在。大事な友達もできた。

24歳の時、第2新卒ということで、建設会社(法面工事)の会社に採用される。現場監督で九州支店へ配属となり、初めての一人暮らしを熊本にて2年満喫する。ここでも大事な友達ができた。しかし、日本男児たるもの東京で働いてみなきゃいかんねと思い込み、辞表を提出、地元へ戻るために宮崎からフェリーへ乗船し、涙ながらに熊本でできた友達との別れをしたことは今もよく覚えている(笑)

地元で白紙に戻る。日本語の先生、スポーツインストラクターなど興味のある分野に応募するもバックグラウンドがなさすぎて軒並み不採用。時は2003年、時代はIT!ということで、確か85万円ほど親に借金して、WEBデザイン・マーケティングの専門学校にて勉強する。ケツに火がついた状態だったので、それなりに頑張って勉強し、在学中に飲食店のホームページ作らせてもらったりのポートフォリオをなんとか作成し、WEBデザイナーの求人を探し始める。

2004年、人材紹介のベンチャー企業に社内WEBデザイナーとして採用され、26歳くらいでようやく自分の道が見えたように(今思えば)思い込んでいた。当時はHTMLでtable使ってレイアウトするのが主流の時代。同僚のSEにjavascriptなんかも教えてもらったり、ベンチャーらしく毎日遅くまで仕事してたけど、やっと仕事につけて安堵していたし、仕事も楽しかった。

この頃の自分のテーマは、かなり恥ずかしいけど「社会人の顔をもったヒッピー」であった。普段は電車通勤して日経新聞読むふりしてリーマンしてるけど、週末はサーフィンしたり旅したりという。オーストラリアや九州での経験の延長で過ごしていた気がする。

しかし、入社1年経った頃、ちょっとしたトラブルで解雇される。解雇理由は書けないが、友達はよくやった!と謎に褒めてくれた。

予定外に職を失い、親にもバレないよう(バレてたが)に就活し、大手新聞社系のWEBメディア運営会社へWEBディレクターとして転職成功する。私の就職履歴の中ではもっとも大きな組織であった。いい大学でてる優秀な人と達や、ヒールでカツカツ歩いているお綺麗な女性陣など、色々刺激的ではあった。しかし、同社の2番煎茶的な事業戦略や、営業職が一番偉いという組織風土に嫌気がさして、またも1年で退職。相変わらず彷徨い続けていた。

28歳にして既に3社退職し、いわゆる荒れた履歴書になっていった。

次は実力主義の外資系っしょ!ということで、某歯科医療機器メーカーのWEBマスターとして転職成功。六本木近くにて勤務。もう履歴書を傷つけられないとの思いが強かった。旧態依然の日本企業を外資が吸収した会社であったため、非常に歪な組織であり、強烈なパワハラを日常的に目にしていた。部長レベルが突然クビになったり、明らかな嫌がらせを受けてたり。今考えても特殊な環境だった。本国の偉い人へECサイトの企画を英語でプレゼンしたのは良い経験となった。あと、しんどい環境にいた同僚たちとは退社後の結束が強かったな。3年ちょい在籍し、パワハラはしんどいし、転職活動を開始。

32歳頃、大手総合商社傘下の日用品販売会社にWEBディレクターとして転職。この頃には転職のプロになっていた。転職するには自分の傷だらけの履歴書を上手く説明できないといけない。そのシナリオ作りとプレゼン力が転職活動によって鍛えられたと思う。渋谷への通勤は楽しかった。週末は外人友達なんかと飲んだりクラブ行ったり、30代の遅い青春(笑)を謳歌していたと思う。やはり履歴書をこれ以上傷つけまいと在籍することに頑張っていたと今になると思う。

34歳頃、毎週末の休日出勤が続き、ついに体調を崩す。心療内科にてうつ病と診断され、退社と相成った。この時は相当辛かったと思う。もうね、考えがまとまらず思考能力が明らかに低下していて、あーこれはおかしいやと思って病院にいったのね。

ある意味吹っ切れて、失業保険をもらいながら、友人のいるハワイへ行ったりした。遊んでいる分には全然平気なんだけど、一応処方された薬を飲みつつ生活していた。独身だったが、親の勧め(と資金援助)もあり、1人で4LDKマンションに住んでいて(←これもうつの原因の1つだったと思う)、元々好きだった観葉植物を家に飾るのが趣味&癒しとなっていた。

大学時代の友人から、同級生がやってるインテリアショップで観葉植物も取り扱ってるよーとの情報をもらい、バイトさせてもらうことになる。35歳で初めてのショップ店員(笑)。立ち仕事の体力的な過酷さを実体験し、毎週1キロずつ体重が落ちていくという人体実験の結果をもたらした。ここで、自分は人に物を売るのが上手だと言われ、自分は営業職をやってみたかったと心のどこかにあったことを思いだしてたと思う。WEBやってからどちらかというとバックオフィス側なので、営業職とは縁がなくなってたのだな。また観葉植物を小売していても絶対に生活するだけの収入は得られないこと実体験し、その時ちょろちょろ入っていた造園の仕事に興味を持ち始める。

1年ちょっとのショップ店員を卒業し、波乗り繋がりで知り合った庭師の元で勉強させてもらうことになる。36歳くらいからのガテン系仕事への転職は完全にチャレンジングなことだったが、この造園業会にて次の活路を見出したいと思っていた当時の志は高く、街路樹の剪定などもやらせてもらい非常に良い経験をさせてもらった。

37歳の頃、造園関係の求人を探し始め、現在勤めている外構設計会社に巡り会う。この会社では当時の外構設計業社の中では珍しく、WEB集客に力を入れていて、自分の過去のスキルであるWEBと植木関連の知識を活かしつつ、営業職にチャレンジできるという、今思えばそれは正に「天職」との出会いになった。このブログを書き始めた2021年現在で7年目となるが、いまだに飽きることなく仕事と向き合うことができている。

長くなりすぎたので、一旦ここまで。細かい出来事は思い出したら投稿していこうと思います。

 

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